「嶋中事件」の版間の差分

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2020年11月29日 (日) 23:15時点における最新版

嶋中事件(しまなかじけん)は、1961年2月1日に、右翼団体の少年が、中央公論社社長・嶋中鵬二宅に押し入り、嶋中夫人に重傷を負わせ、お手伝いの女性を殺害した事件。前年11月に雑誌『中央公論』誌上で発表された深沢七郎の小説『風流夢譚』における皇族の取扱いに対する、版元・中央公論社への批判を受けての犯行だった。事件後、中央公論社は反省と遺憾の意を示す社告を出した。

背景[編集]

暴力事件の続発[編集]

1960年には、岸信介内閣による新安保条約締結に反対する学生運動の高まりと、それに対する警官隊を動員した取締りにより、暴力によって紛争を解決しようとする動きが表面化し、テロ事件が続発した[1]

  • 同年6月15日に安保反対運動で国会構内に侵入した学生のうち、東大生の樺美智子が警官隊に殴打されて死亡。
  • 同年7月14日には岸信介首相官邸で右翼団体構成員によって太腿を刃物で刺され、負傷。
  • 同年10月12日、社会党委員長・浅沼稲次郎日比谷公会堂で演説中に右翼団体構成員の少年に刺殺された。

風流夢譚[編集]

同年11月10日発売の雑誌『中央公論』12月号に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』は、夢のような物語の中ではあるが、実名をあげて、皇族を貶めるような扱いや、皇族が首を切られる場面があることが注目され、宮内庁が不快感を示した。警察は右翼団体によるテロルの動きを察知して出版元の中央公論社に通告した。[1]

批判と謝罪[編集]

批判を受けて、雑誌『中央公論』の編集長は、右翼団体へ出向いて詫びを入れ、翌1961年1月号の『中央公論』誌上に雑誌編集長名でお詫びの社告が掲載された[1]

中央公論社の社長だった嶋中鵬二は、自身に作品の掲載を許容するつもりはなかった、としていた。このため、右翼団体は編集長の謝罪後も、嶋中を標的として活動していた。[1]

殺傷事件[編集]

1961年2月1日に、右翼団体構成員の少年が、中央公論社社長・嶋中鵬二宅に押し入り、嶋中夫人・嶋中雅子に重傷を負わせ、止めに入ったお手伝いの女性・丸山かねを殺害した[2]

事件後、嶋中あてに「いい気味だ」と襲撃を喜ぶようなハガキが多数寄せられた[3]

事件の翌日、嶋中宅に永井道雄久野収鶴見俊輔ら社外の関係者が集まり、中央公論に出す社告の内容を検討。同年2月5日の主要新聞各紙および同月10日発売の『中央公論』3月号に「実名を用いた小説を扱うにあたっての十分な配慮を欠いていたことを深く反省」する旨の社告が掲載された。[4]

  • 永井はテロに対して言論を持って戦うことを主張する原案を作成したが、嶋中は難色を示し、久野もトーンダウンした方がいいと意見して、鶴見が修正案を作成した。
  • 朝日新聞』は意見広告にあたるとして社告の掲載を拒否した。

同月4日に護国寺で丸山の葬儀が行われた[5]

関連事件[編集]

事件に関連して、1961年12月に、中央公論社が、同月25日に発売予定だった同社を版元とする第4次『思想の科学』1962年1月号(天皇制特集号)を廃棄する事件が起きた(天皇制特集号廃棄事件[6]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 中村智子『「風流夢譚」事件以後 - 編集者の自分史』田畑書店、1976年、JPNO 74001583
  • 鶴見 (1977) 鶴見俊輔「『「風流夢譚」事件以後』を読んで」第6次『思想の科学』No.74、1977年4月、pp.41-45、NDLJP 1748126 (閉)
  • 野依秀市『“風流夢譚”の批判と国民への訴え - 嶋中・中央公論・小森事件の根本』芝園書房、1961年、NDLJP 1359697 (閉)

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 黒川 2018 322-323
  2. 黒川 2018 323
  3. 黒川 2018 323 - 鶴見 (1977 )による。
  4. 黒川 2018 324-325 - 鶴見 (1977 )による。
  5. 黒川 2018 325
  6. 黒川 2018 327-331

参考文献[編集]