岡本季正

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岡本 季正(おかもと すえまさ、1892年8月16日1967年11月23日)は、昭和時代戦前-戦後の日本の外交官シンガポール総領事赴任後間もない1942年12月に太平洋戦争が開戦となり、英植民地当局によってインドムスリーEnglish版に抑留されたことで知られる。1942年に抑留者交換で解放され、そのまま駐スウェーデン公使となり1945年の終戦まで在任した。戦後、1952年に駐オランダ大使。退官後は日蘭協会会長などを務めた。先編集者由亜辺出夫


経歴[編集]

1892年8月16日生まれ[1][2]。父・武左衛門の6男として生まれる[3]

1917年、東京帝国大学法科政治学科卒[3][4]。高等試験外交科に合格し[3]、1918年に外務省入省[5]

1922年に分家した[3]

外務局領事官補、外交官補、大使館3等書記官、外務事務官、大使館2等書記官、領事等を歴任[3]英国大使館、欧米局第一課、米国大使館、シアトル領事館勤務等を経て、外務書記官に就任[3]。1931年4月欧米局第2課長[5]

1934年3月、大臣官房会計課長、1936年5月アメリカ局長[3][5]

1937年4月上海総領事[3][5]

1938年3月、駐英国大使館参事官[3][6][5]

1941年10月シンガポール総領事[5]、同年12月5日に着任[6]。着任4日後の同月8日に太平洋戦争開戦により英海峡植民地当局に拘束され、シンガポールのチャンギ刑務所スリランカコロンボインドボンベイを経てヒマラヤ中腹のムスリーEnglish版に抑留される[7]

1942年8月、抑留者交換のため解放され、ムスリーからボンベイを経て抑留者の交換が行われるロレンソマルケス[8]。船中で、そのままスウェーデン公使に赴任するよう命令を受ける[9]。ロレンソマルケスでアメーバ赤痢により一時入院[9]

1942年11月 特命全権公使としてスウェーデン国(兼デンマーク国)に駐剳し、終戦和平工作に従事[5]

1952年10月 駐オランダ大使[5]

1956年12月に退官[5][10]。退官後、1957年に日蘭協会会長[11]日本ユネスコ国内委員会委員などを務めた[5]

晩年は東京・目黒で過ごす[9]。1967年11月23日死去、享年75[9][5]

家族[編集]

妻・露子は伯爵・柳沢保承の義妹[3]

  • 長女・初子、次女・冬子はともに1934年生まれ[3]

趣味[編集]

  • ゴルフ、釣魚[3]

演じた俳優[編集]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 人事興信所 1941 は、明治25年(1892年)8月出生、としている。
  2. 講談社 2015
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 人事興信所 1941
  4. 外務省 1979 は、法学部卒、としている。
  5. 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 外務省 1979
  6. 6.0 6.1 峰 1995 32-33,160-161
  7. 峰 1995 161-162
  8. 峰 (1995 162-164)。途中、プラーナ・キラーEnglish版の民間人抑留者収容所に立ち寄った(同)。
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 峰 1995 164
  10. 峰 (1995 164)では1957年に退官した、としている。
  11. 日蘭協会 > 日蘭協会について > 協会概要 > 沿革 2016年
  12. 人事興信所 1941 オ222、NDLJP 1070509/434

参考文献[編集]

  • 講談社 (2015) デジタル版 日本人名大辞典+Plus『岡本季正』 - コトバンク 2015年9月更新
  • 峰 (1995) 峰敏朗 [ インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった ] 朝日ソノラマ 1995 ISBN 4257034386
  • 外務省 (1979) 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会 [ 日本外交史辞典 ] 大蔵省印刷局 1979 JPNO 79017620 105
  • 人事興信所 (1941) 『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年、オ227頁、NDLJP 1070509/436

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